昭和50年8月13日 13日会   入力者松本正宏


 映画とかお芝居なんかを見ましてもただ興味本位に作られたもの。または、人間の心の中に訴えてやまないといったような作者の心というか性根というかそういう精神が売りだされて出来た芝居、または映画と。そういう映画を良い映画と言うたり、良い芝居と言うたりするわけです。ただもう見た時だけ、聞いた時だけ、はあ面白かったで何も残らない映画を映画とかお芝居なんかの場合はそれをいわば良い芝居とか良い映画とか申しません。信心もそうです。ただおかげという事に目先の事に終始するのだけではくて、何を神様が分からせようとなさっておるのかと、そういう私はあのところを教えになって分からせてもらう。ただ教えがただありがたかったというだけで済むのではなくて、その教えが私の生きかたを変えてしまう。私の思い方を変えてしまう。私の心を揺さぶるように私の心が助かっていくというような、あの、宗教であり、または教えでなからなければ本当の宗教の宗教性というものはないというても良いと思う。例えばこの十三日会。これは、本当の意味で、神様の願いが成就するという事。まあせめて、その十三日の一日だけでも神様のお心に添い奉る生き方をさせて頂こうとういようなところから十三日会というものは発会しておるのでございます。
 ただ、十三日の日に朝から集まってお掃除をさせてもろうて、それから信心の共励をさせて頂くという事のその内容というものがです、その御用を頂いて何を分からせてもらわなければならないか。信心の共励を頂きながらどこを頂かなければならないのか。という事を致しますと、共励だけでもいけん。御用だけでもいけん。その御用と共励が一つになって、神様の心を表せれる働きになってこなければいけない。成る程もう二三日後に大祭を控えておる。だから御用でも普通の時とは違った、なら大掃除的ななら、御用があるので、どうしても時間が遅れたり、いや、今日一日では足りないという事になるわけです。そうすると共励のほうが疎かになり、と言う事ではやっぱりいけない。だからどうでも一時なら一時までは、一つの御用を終わらせて頂いて、そして、今日残ったものでもよいから、今度は本当に心あるもの、本当にそうしなければおられないもの達の集まりが明日でもよい、今日の残りの御用をさせて頂くという事が本当のことではないかと思うのですよね。だから共励をさせてもらう事によって神様のお心も分からせてもらうし、同時に御用をさせて頂きながらその神様のお心に答えると同時に、または分からせて頂くという事もある。だから片一方で、偏ってはならない。今日私は、あの御神前に出らせて頂きましたらもう、身の丈六尺くらいあるだろうとういような大きなあの、修行しておるお坊さんのこう、墨染めの衣ですかね、こう腕をこうまくって、そして、もうそれこそ普通のホウキよりもだから随分大きな高いホウキをもってお掃除をしておられるところを頂いたのです。それから私はただ今皆さんに聞いて頂いたような事を感じるのですけれどもね、もうとにかくあの、分かるということはどういう事を分かるかと。どういうような場合に私は直面いたしましてもね、もう結局私が改まって私が清めていく以外にない。その都度都度に大きく清め、大きく改まっていくという以外にないという事だと思わせて頂いておる。事々の全てがそういう神様の深い御神意。親心を分かってくれよという働き以外にしかないから、答えがそこに出てこなければ本当の事ではないというようなことを思います。御用だけが信心ではない。話を聞くばかりがまた能ではない。その話を聞く。そして御用。そして自分のあり方の全てがです、信心によっていわゆる心が助かっていく、いうならばお芝居もただ、教訓的なお芝居。ただ、何かを教えようとする教育だけをしようとする映画では面白味がない。そのストーリそのものも素晴らしくなからにゃいけません。それでいて何とはなしに訴えてくるものがなからなければなりません。
 どうでも合楽の信心はそういう信心を一つ踏襲したい。そういう信心を神習わせて頂きたい。体得していきたいと思います。
                                     どうぞ